資料 神奈川県新生児医療の現状
神奈川県立こども医療センター 新生児科医長 豊島勝昭

【安心して子供を産めない?神奈川県】

私は新生児科医です。神奈川県立こども医療センター新生児集中治療室(NICU)で約10年間働いてきました。しかし今、神奈川県では、県内で新生児医療を受けられない御家族が増えています。安心して妊娠・出産できる県ではなくなってきていると実感します。その現状を報告し、NICU医療の現場が切望する改善策を述べさせて頂きます。
私たちは、24時間体制で、横浜市内の新生児入院依頼を受けています。電話や往診で新生児の重症度を判断し、治療可能なNICU施設を探すこともします。
しかし、この2-3年は連日、病床が満杯に近く、新しい赤ちゃんを受け入れる余裕がほとんどない日々が続いています。
産院など医療設備が不十分な施設で生まれた赤ちゃんでも、人工呼吸器の装着など、高度な医療が必要な病状に陥ることがあります。こうした場合、私達は産院へ往診します。赤ちゃんを設備の整った病院へ早く移すことが後遺症を防ぎつつ救命することに必要だからです。
しかし最近は、入院の受け入れ病院はなかなか見つかりません。産院で立ち往生し、長時間診療を続ける状況もあります。そうならないように、妊婦さんを遠い他県の病院に移送して他県で出産と新生児医療を御願いすることが日常的になりつつあります。

【増えるNICU入院児】
NICUに入院する早産児や先天異常児は全国的に増えています。出産数は減ったのですが、若年妊娠・生殖医療・高齢出産の増加などに伴う早産児や病的新生児の増加、医療レベルの向上で命は救えたが後遺症で長期入院する子の存在、胎児診断の普及で以前は専門施設に入院する前に亡くなっていた最重症児が治療可能施設で出生するようになったこと、妊婦健診の未受診の飛び込み受診の増加、など様々な要因が複雑に関与していると考えます。

一方で、産科医・小児科医・新生児科医の全国的な不足で、NICU医療を縮小せざるを得ない施設も多いのです。さらに、リスクマネージメントを重視する風潮から、少々重症でも無理して患者さんを収容する施設が減っていることもNICU病床不足に拍車をかけているのではないかとも感じます。

【新生児が県外へ】
そして神奈川県では特に、県外に運ばれる産科・新生児救急患者が、全国的にみて一番多い県です。早産のリスクのための県外への産科救急搬送は2006年に103件、2007年は約70件でした。これは他県の周産期・新生児医療関係者に伝えると驚愕されます。他県への搬送は稀な偶発例以外はない県がほとんどないからです。
●搬送先は、東京都:99件、静岡県:2件、千葉県:1件の内訳です。そのうちの15件が双胎妊娠でしたので胎児としては118名の診療を他県に緊急で御願いした計算になります。

「奈良県妊婦たらい回し報道」のような事態が生じてもおかしくない現状だと感じます。
県外搬送患者の46%は、搬送先をみつけるまでに2時間以上かかっています。出産と治療開始が遅れ、後遺症につながっている可能性も否定出来ません。
運良く無事に出産できても、生まれた新生児は長期間、他県で数ヶ月の入院を要することになります。ご面会などを含め、ご家族の苦労は並大抵ではありません。
2007年,2008年は長野県まで母体搬送された妊婦さんがいらっしゃいます。首都圏の周産期新生児医療の収容能力は限界だと感じます。
神奈川県は約20年前に、全国に先がけて県内のNICU施設の連携システムを構築しました。現状は以下の体制です。

<NICU病床:集中治療病床, GCU病床:回復後病床>
しかし今、県内のNICU施設は慢性的な病床不足です。「空きベッドをみつける」システムがあっても「どの施設にも空きベッドがない」状況が目立つのが現状です。県内に収容可能病床が全くない状況での晩の当直はただただ、新生児医療を必要とするお産がないことを願うのみです。この状況は先進国として社会の皆様に容認される状況であろうかと感じることもあります。

【大阪の3分の2】
実は、神奈川県のNICUの病床数は、人口や年間出産数がほぼ同じ大阪府と比較すると、かなり少ないのです。
重症新生児に高度な集中治療を行う役目を担った基幹病院の病床数を比較すると、大阪府は集中治療病床が114床、回復後病床が156床。これに対し、神奈川県は集中治療病床71床、回復後病床102床で、いずれも大阪の3分の2程度です。(下表参照)。ここで回復後病床とは、集中治療から回復した後、退院を迎えるまでに過ごす病床です。回復後病床が不足していると回復した児でも集中治療病床での入院継続が余儀なくされて新規の入院者をとれないことになります。集中治療病床以上の数が原則必要な回復後病床です。

さらに県内では、小児科医・新生児科医・看護師不足などの影響で、NICU病棟の閉鎖や縮小に向かう病院が目立ちます。NICUがあっても、実際には病床の定数通りに患者を受け入れず、入院を制限している病院も少なくありません。これは実態調査が必要と考えます。

【3日に1日は当直もしくは自宅待機医】
神奈川県こども医療センターのNICUは現在、集中治療病床15床、回復後病床21床です。診療に従事している新生児科医は実働8人。内訳は常勤医5名、非常勤医師2名、専門研修医1人です。これに、3か月交代で研修に訪れる小児科総合研修医1人が加わります。
NICUの診療には、二つの特徴があります。一つは、高度な医療技術・医療機器が必要なことです。こども医療センターでは胎児診断が盛んで、心臓手術や腹部外科手術、脳外科手術などが可能です。このため、さまざまな専門医師が協力しての医療包括的医療が必要な重症児が県内全域から集まってきます。
もう一つの特徴は、赤ちゃんの養育です。例えば、昼夜を問わず3時間置きに母乳やミルクをあげないといけないというような成人にはない面があります。
ですから、成人の集中治療室以上に、医療者の仕事は多岐にわたります。1人の赤ちゃんの人工呼吸管理の調整や様々な静脈注射を投与しながら、別の赤ちゃんを抱いてあやしたり、ミルクを飲ませたりしています。
私たちはNICUでの診療に加えて、ドクターカーで患者を他の病院に救急搬送したり、往診したりします。産科病棟の正常新生児室での診療や、NICUを退院したお子さんを外来で診療することもあります。さらに在宅での人工呼吸管理を含めた元NICU患者の在宅医療、産科と共同して胎児の検査結果を読み取って診断し、家族に病状を説明するような時間の必要な御家族への面談、母乳育児支援などもします。
当直は月6回です。ほかに、当直医が往診や搬送に出かけたときに代理となるために自宅待機で呼び出しに備える日が月6回あります。結局、年間100日前後は拘束のある夜間・休日です。
昨年のある月に、新生児科医全員の時間外勤務を調べました。各人の時間外労働(当直・週末当直も入れて)は1週間当たり35?96時間にも及びました。過重労働といえるとは思います。でも、我々は目の前のよりか弱き新生児のために職責を遂行しているつもりです。ただ、現状の病床状況では、心身の健康を維持しないと医療事故を起こしかねない自分たちの慌ただしさは感じております。また、予後不良児の緩和ケアやターミナルケアを落ち着いて施行するゆとりがなくなりつつある現場と感じて、御家族に申し訳なく感じております。

【やむなく転院促進】
県外で早産出生を課す母児を減らすには、神奈川県内の1500g未満の早産児の収容能力をあげることが必要です。
このため私たちは昨年、病棟運営の方針を変えました。脳神経後遺症や未熟児網膜症などのリスクが残るハイリスク早産児でさえ、集中治療の必要度が下がった時点で転院を推進しました。外来での再会を約束し、中小規模の協力病院の先生方のご理解とご協力のもとでの転院して頂いております。
退院まで急変のリスクが少なからずある早産児の転院は全国的にみても推進している施設は少ないです。大阪ではご家族の希望がない限り、転院は原則ないようです。設備の整ったNICUで退院までの診療を受けるのは、多くのご家族の願いであると共に、医療者も願わくば、かなえたいこだわりです。しかし、県外に多くの母児の入院を御願いしている現状で、<収容出来る児にとことん手厚い医療を提供する>のも不公平と考え、ご家族にご理解を求めております。神奈川県の窮状はどの御家族も身をもって体験されるわけですので、神奈川県の限られた医療資源の譲り合いの気持は自然と生じている近年と思います。ほとんど全ての御家族がご了解下さっております。

【工夫も限界】
このような方針の結果、1500g未満の早産児の入院数は、2006年度の331名から、07年度は358名(10.8%増)に増えました。新生児集中治療を要する重症児や早産児も、呼吸管理が必要だった患者が131%増加の145例、1000g未満の入院数は165%増の34名となりました。一方で、めまぐるしい入院・転院・退院を繰り返すことにより、診療や事務業務も急増しました。
それでも、2007年度も県外への母体搬送例は70-80例前後あり、前年と比して25-30例の減少に過ぎません。病床運用の努力だけで県外への産科救急搬送を減らすことには限界を感じています。県病院従事者として、神奈川県で出生を希望する母児に申し訳なく感じます。早産児の集中治療可能病床の増床とともに、1名でも多くの早産児を入院するための病院間連携、医療技術の向上などの対策を、医療機関も神奈川県、国(厚労省)も検討することが必要です。

【医療経済からみて】
NICUの充実は、患者・家族の役に立つだけではありません。
入院する子の多くは、早産の子や、胎児・新生児仮死で生まれた子です。この子たちは永続的な病気ではなく、一時的に状態が悪化しているだけです、適切な治療をすれば、後遺症なく赤ちゃんの命を救える可能性が高いのです。
一方で、その適切な治療がなければ、赤ちゃんは死亡したり、重い後遺症が残ったりします。後遺症次第では大人になっても医療を必要とし、医療費がかさむのも現実です。社会全体の医療費負担を減らすためにも、新生児医療にしっかりと費用を投入すべきです。
安心して妊娠・出産出来ることに力を注ぐ神奈川県というイメージが社会に拡がることは神奈川県のイメージアップにつながるとも感じます。

【社会の支援を】
赤ちゃんは、朝も夜も、平日も休日も生まれます。これに対応する医師や看護師の労働は過酷で、離職者も目立ちます。それでも、誕生の喜びとNICUに入院しないといけないような病に悩む児・ご家族に寄り添える、助けになれる仕事にやりがいを見いだし、NICUに立て籠もるようにして新生児医療に従事している医療者がたくさんいます。
しかし、我々の奮闘だけでは赤ちゃんやご家族を守りきれなくなっています。NICUに入院する赤ちゃんやご家族のために、社会のご支援を切望している我々です。

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